奈良徐福研究会
奈良徐福研究会総会・勉強会
 奈良徐福研究会は平成17年7月7日に設立・発会式を開催しました。
平成22年7月7日、第6回定期総会・勉強会をJR三郷駅前ホテル・バンガードで開催致しました。学校でも教えない「徐福」さん、古代の夢とロマンを探ります。
 徐福研究会のボランティア活動として立ち上げた龍田山と三室山に桜を植える会「龍田・三室山桜の会」が2013年7月末、オーナー会員1820人を突破いたしました。
オーナー会員制が口コミで好評を呼びました。産みの親、徐福研究会としては誇らしく思っている次第です。、
 龍田山に2100年前に製鉄が行われていたのは「徐福さん」に関わりがあるものとの思いが会員の皆様にも解って戴けたものと思っております。
桜の会にご入会下さった皆様にも育ての親でもあります「奈良徐福研究会」に是非ご理解戴き、ご協力戴ければありがたいです。
 一人でも多くの皆さんに「徐福さんの貢献」「弥生の使者・徐福さん」に親しんで戴きたく願って居ります。
第6回定期総会・勉強会
平成22年7月7日、JR三郷駅前の「ホテル・バンガード」で総会・勉強会を開催しました。基調講演を徐福研究の第一人者である『池上正治」先生にお願いしました。
中国・韓国・日本の徐福伝承地のスライドを披露してのお話は、大変好評でした。
資料・冊子・記念品まで用意しだ上に豪華景品つきのビンゴゲーム、それに歌手の歌謡ショー等、盛り沢山のプログラムに、赤字を心配する会員さんが居たくらいでした。
先ずは成功でした。
徐福さんの像
徐福さんの像は伝承地によっていろいろあります。
お墓も数箇所にある。伝説の話にはよくある事です。
しかし、今や伝説の人ではなくて「弥生の使者・徐福」として日・中・韓で実在の人物であるとされているのです。
徐福さんの冊子
 1、徐福物語   166頁 ¥2000円

   著者73歳古希を記念して書いた冊子、2003年11月22日出版。
   弥生の使者・徐福さんは皇祖神ではないか、謎に迫る。166頁。
 

 2、徐福さん   62頁  ¥800円

   学校でも教えてくれない「徐福さん」
   日・中・韓・台湾などで徐福研究が盛り上がり、学校でも教えてくれる程だ、と   聞きます。我が国でも研究者が声を上げるようになった。
   徐福さんが中国寧波の港町から船出して、日本の何処へ最初に到着したか、これ   についてこの冊子は新説を提供している。
男鹿・徐福フォーラム
 8月3日、男鹿で徐福フォーラムが開催される。
池上正治先生を招いての「徐福碑復元5周年記念大会」だと案内にありました。
元湯・雄山閣が事務局になったいるらしい。都合で参加は出来ないので祝電を打っておきました。徐福伝説が男鹿にも根ついている事が驚きである。
6号園の桜
6号園の桜、5年目の生育。猛暑にも負けず逞しい。
神社跡の桜
神社跡7号園の桜、5年目の生育。猛暑にも負けず逞しい。
平成22年8月22日撮影
天智天皇御陵と宇治川
22年10月15日、みさと万葉教室の現地学習で山科。宇治川を回って来た。
山科の御陵近く、御陵1番地に花の会の会員であり同郷の先輩でもある前田さん宅がある。天智天皇御陵参拝もですが、前田さん親子にご対面できるのが楽しみであった。
先輩は今年89歳になる。写真の通りお元気であった。
 今日は天智天皇御陵・応神天皇、仁徳天皇を祭る宇治上神社に詣でる事が出来た。
徐福研究を進めている者として、天皇家の事には特別な関係を持っているわけである。
つまり、徐福さんは限りなく天皇家のご先祖であり皇祖神であると信じているのです。
 戦前は、徐福研究に深入りすると「不敬罪」でお縄になるものであった、と聞きます。現代は言論の自由があり有難いご時勢だと言えます。
7世紀の頃に記紀が創られて、徐福さんは完全に歴史から抹殺されてしまっているのではなかろうか。渡来人であることを嫌い、古代からの日本人であるように改竄されていると思えます。故に、藤原不比等は古代史改竄の大罪を犯している事にもなります。
徐福研究会の大きな謎解きのテーマーであります。
 写真は前田先輩・天智天皇御陵・宇治川・宇治上神社です。
桜の会忘年会
8月9日に申請してありましたNPO法人の認可が9月1日に下りました。
桜の会も今後はNPO法人として活動してまいります。
この度はNPO 法人認可のご報告を兼ねて忘年会・懇親会を下記の通り開催します。

              記

  日  時  平成22年12月11日(土)午前10時30分〜15時まで
  会  場  ホテルバンガード  JR 三郷駅北隣 徒歩2分
  会  費  2,000円   当日持参

  催 し 物 1、映画  {さくら」  約50分
        2、NPO 理事紹介
        3、アトラクション  (プロ・ノンプロ出演)
        4、カラオケ大会
        5、ビンゴゲーム 

     準備の都合が御座いますので参加ご希望の方は12月5日までに
     ご連絡下さい。

     連絡先  090−3275−6883 NPO法人
                        龍田・三室山桜の会
                        事務局  益田まで
桜の会忘年会
12月11日の忘年会は予想以上の参加者53人が参加して盛大に楽しく終了する事が出来ました。
午前中は日本海から太平洋までの国道に桜を植える実話にもとずく映画「さくら」を上映しました。参加者が始めてみたと感動されていたので先ずは成功でした。
その後一谷相談役の音頭で乾杯をして祝宴となった。
食事をしながら会務報告・NPO法人認可の報告・理事の紹介に続いてアトラクションになった。ビンゴゲームもカラオケも用意してありましたがカラオケは皆さんに歌って貰えずに時間切れとなりました。少し残念で反省材料になりました。
欲張って盛り沢山の企画をしたようです。よい勉強になりました。
ホテルで2000円会費で忘年会が出来た事は自慢できるものと思う。
不通ならばさいてい5000円会費が必要です。
ホテル側の思いやりサービスが有りがたいです。感謝です。
初詣で、3社巡り
平成23年1月2日。
近くにある神社に初詣に出かける。
  1、龍田大社   龍田山の風の神様。製鉄に必要な風を祀っている。
  2、龍王社    役の行者葛城28宿修行最終満願の社。
  3、峠八幡神社  昔、赤門関所がこのあたりにあった、峠集落の氏神様。
石室発見
 三室山と峠の間を流れ下る川こそは在原業平が歌に詠んだ「龍田川」であると思う。
  「ちはやふる 神代も聞かず 龍田川 からくれないに 水くくるとは」
川下とは想像も付かないのだが、山を分け入ると別世界、霊山犬鳴山の渓谷に似た雰囲気である。身震いする様な霊気を感じる。
 渓谷の峠側傾斜地に「古墳」がある。正に新発見である。
故図に載っている「歌塚」を探しに柴崎さんがたまたま見つけたものである。
 即刻カメラを提げて2人で確認に出かけた。お塩で清め、お線香を手向けて小さな穴から中に入って吃驚。素晴らしい立派な石室である。
 写真でご覧の通りである。(平成23年3月24日撮影 )
長岡天満宮
 平成23年4月28日、菅原道真公を祀る長岡天満宮に参拝。
菅原道真が大宰府に流されていく時に、亀の瀬の「龍王社」にお参りした記録があると聞いていたので今日の天満宮参拝は特別な思いがあった。
鳥居をくぐると「霧島つつじ」が燃えるように赤く満開であった。
 
 写真で紹介します
相次ぐ訃報
 平成23年5月19日 
佐賀県の徐福会会長村岡さんの訃報を聞いたのが先週である。
今週14日に新宮の奥野さん数え101歳であるが、お亡くなりになったとメールが這入った。相次ぐ訃報である。ご両人とも徐福研究に誘って下さりご指導いただいた恩人である。人間だれしも何時かは死ぬ、限りある人生。元気に活動できる間は悔いの無い
達成感を積み重ねて行くべきです。心いたしましょう。

池上先生から奥野先生告別式の写真が添付されて有りました。
グリーンカーテン
 少しでも涼しい日よけになればと今年は家の周りにゴーヤを植えた。
朝顔も昨年より鉢を増やしている。
 連日30度越すなかで逞しく成長している。
流石に夕方には暑さにしおれているが、ホースで水をやっておくと翌朝には活気が戻って蔓が延びている。少し大げさな棚を作ったのではと思っていたが丁度よい按配だ。
ゴーやは大きな実を付け始めた。楽しみが一つ増える。
 画像は全て7月15日に撮影した
設立記念日
 奈良徐福研究会の設立は平成17年7月7日である。
今年、7周年を迎える事になった。
大げさな総会ではなく会員有志に集まってもらい懇親会・勉強会を開催する事にした。
30数名の参加があった。(記念写真参照)

 徐福さんに関する資料、桜の会に関する資料を基にしてミニ講演。その後記念撮影、食事会、アトラクション、ビンゴゲームと続きました。

 終了時間の3時まで一人として帰る人も無く最後まで座って戴きました。
龍田古道「憩の家」
 大和朝廷が平城京に移ってからは大和から難波へ行くのに龍田山を超えて行く道があり、この道を龍田越えの龍田古道という。龍田山は現在道路地図にも載っていないのだが、10代の崇神天皇が聖なる山として龍田神宮を創建されている。山で神々の降臨をを願って世の中の疫病。飢饉を救われたのだ。山に「御座峰」の石碑も建っている。あまり知られていないのだが、聖徳太子様はこの「御座峰」の神を祭って「法隆寺」を建てられている。思い込みですが、この御座峰こそ神話の「天孫降臨」の山に相違ないと確信しています。
 龍田山の東の麓に「三室山がある。
龍田山の神社は三室山に下って立てられている。現在龍田神社本宮跡の石碑が建っている。立野にある龍田大社は以前三室山にあったのだ。
 古代の旅人は三室の龍田神社に参拝して龍田山を超えて難波に向かっている。
大伴家持も神社に参拝して龍田越えをして龍田山の桜の歌を詠んでいます。
「龍田山 見つつ超え来し 桜花 散りか過ぎなん 我が帰るとに」と詠んでいます。
この歌が詠まれた頃は「水の吉野、桜の龍田」と言われていたらしい。そして又、
この頃は大和と難波を結ぶ幹線道であり、古代の国道1号線と言えます。
 龍田・三室山桜の会は龍田古道沿線周辺に桜を植えて古代の名所復活を願ってボランテア活動初めて今年7年目である。
 地元地主さんが山を提供して下さり、桜の公園が14箇所も出来ました。来春は15番目の公園に300本植樹予定しています。樹齢40年のヒノキ山を提供して下さいました。ヒノキは現在金になりません。貰い手もないのです。昔なら山持ちは金持ちと言われたものです。今は厄介持ちです。
 古道の中程に「龍田古道、憩の家」を用意しています。登山者の為に簡易トイレもあります。古道を登山される方熱烈歓迎・ご案内ボランテアも致します。
 龍田古道よろしくお願いします、「龍田古道」の冊子も用意しています。

 
奈良徐福研究会定期総会
 今年は奈良徐福研究会発足7周年になる。
NPO法人龍田・三室山桜の会も同じ様に7周年である。
第7回総会を合同で下記の通り開催します。

              記

 総会期日   平成24年 7月 7日 (土曜日)午前10時より

 会  場   ホテル・バンガード   JR三郷駅から徒歩1分

 会  費   2000円       昼食・資料代・会場費に当てます。

 定  員   50名         定員になり次第受付締め切ります。
7周年記念大会
 平成24年7月7日、JR三郷駅前のホテル・バンガードで7周年記念大会を催しました。看板はNPO法人龍田・三室山さくらのかいにしてありましたが、設立発足は同じ7日であります。配布した資料の中身は桜の会より徐福資料が多く入っていました。
 当日は夜半から雷が鳴って大荒れの天気でしたが大勢の方がご参加くださいました。
アトラクションも盛り沢山で楽しい1日を過ごしました。
 画像添付致します。
小鞍の嶺
 25年度植樹をする場所は12号園(小鞍の嶺)の隣接の森と頂へ登る古道沿線に決

めて現在伐採を進めています。

2号園には既に250本ほど植わって居りますが来春150本は植える事が出来ます。

全体で400本の桜公園となります。

15箇所も出来ている桜の里山公園の中で一番大きな公園になります。

画像は伐採の進んだ「小鞍に嶺」です。
徐福フォーラムin神奈川
 12月3日、徐福フォーラムin 神奈川が御座いました。
会場は横浜駅の近く、歩いて8分の会場でした。
全国から徐福研究者が集う催しです。中に韓国済州島からも6名参加されていました。
 私は「徐福渡来最初の上陸地は徳之島である」の論文を発表いたしました。
南西諸島の海洋民族が4〜5千年も前から中国の貨幣であった「宝貝」を小船に積んで遥々中国と交易をしていた。宝貝は南西諸島でしか採れません。中国の漢字の財産を意味するものには全て貝編が付いています。宝貝商人は中国でお国自慢をします。
東方蓬莱の島には不老不死の仙薬があり、100歳を越す老人が大勢居る。年中青野菜を食し、裸足で暮らせる、等と吹聴します。始皇帝も徐福さんもその情報を知っていた筈である。徐福さんは始皇帝に仙薬を採ってくることを告げて巨費をせしめて大型構造船を50隻、80隻を建造して、5千人〜8千人を引き連れて東渡したと記録があります。世界に類の無い民族大移動です。彼は戦乱の続く中国に見切りをつけて中国脱出を目論んでいました。仙薬を持ち帰るどころか蓬莱に止まり王になったといいます。
 始皇帝を裏切ったとして中国の正史にも載らなかったのでしょう。
わが国では王になり犯されること無くベールに隠される事になったように想われます。
台湾徐福会との交流
 昨年暮れの31日から新年正月4日まで、4泊5日の台湾旅行に出かけました。
台湾の徐福研究会のご招待で日本から5名参加しました。
毎年元旦に5万人収容できるドーム会場で「ご先祖祭り」が開催されます。
2008年にも日本から28名参加しました。今回が2度目である。
前回に比べて規模が大きくなり内容もグレードアップしていました。
易経大学も建設されていました。2日から4日までは6人乗りデラックスワゴン車で市内観光でした。観光と言うよりは豪遊と言う方がよい。感動・感激の旅でした。
邪馬台国は徳之島
 京都京田辺に「竹取翁博物館」がある。
館長の小泉さんはインターネットの私のプログをご覧になり、感動されて徳之島へ飛んで行きました。現地に行かれて調査され納得されたようです。
 現在博物館で「邪馬台国は徳之島」「卑弥呼は徳之島に居た」を博物館で展示されています。学会やマスコミに宣伝PRされておられます。
 2月2日に講演を頼まれて博物館へ行って参りました。受付をされている川野女子が
徳之島伊仙町の方でした。驚きました。
 当日の演題は「徐福集団最初の渡来地考察」でした。
今から2223年前秦の始皇帝の命を受けて徐福集団が徳之島へ渡来しています。
 邪馬台国ができたのは徐福渡来に深い関わりが有ります。
徐福集団は弥生の文化文明を齎して黒潮に乗り九州へ登り,更に大和へと東進しています。徐福さん本人のお墓は和歌山県新宮市に有ります。
徐福さんは弥生の使者であり、皇祖神であろうと言われています。
26年度定期総会
 例年奈良徐福研究会の定期総会は7月7日に行っています。

昨年度もJR三郷駅前のホテル・バンガードで盛大に行われました。

今年平成26年度も7月7日に同じ会場で開催致します。

 ご関心のある方は御越し下さいませ。
徐福渡来は徳之島
2千2百年前に始皇帝の命を受けて、徐福集団が渡来して来たのは「徳之島」である。
始皇帝から「巨費」をせしめて大型構造船を50隻を建造しての渡来である。
始皇帝が持て余していた人質の「童男童女」6千人を貰い受けて乗せて来たという。
 始皇帝は万里の長城を造り宮殿を造り、次に目指したのは「不老長寿」であった。
5000年も昔から南西諸島の徳之島海洋民族「海人=ウミンチュう」は小舟に「宝貝」を積んで中国と交易していました。宝貝の中国の通貨として重宝されていたのです。
行商人たちの情報では、島には100歳を超える御仁が大勢いて不老長寿の仙薬があるなどと吹聴したようです。始皇帝はその情報を聞いて徐福に仙薬を採ってくるように命じて徳之島へ派遣したのです。徐福は戦乱で乱れた中国を脱出して蓬莱の島徳之島へ憧れていたのです。始皇帝の命を受けて中国を脱出できる絶好のチャンスだと考えました。
 中国を出て蓬莱の島へ渡ってから2度と中国へ帰ることなく蓬莱の国の王となった。とあります。始皇帝を裏切ったわけです。その為に裏切り者として史実にも載せられなかった。又、我が国でも徐福については学校でも教えません。徐福は天皇家のご先祖として崇められ公にしないのであろうと筆者は考えています。
 徐福が渡来した徳之島は後に「邪馬台国」ができたのです。女王卑弥呼も徳之島にいたのです。徳之島伊仙町に弥生時代の貴婦人のミーラが保存陳列されています。
限りなく「卑弥呼」だと筆者は考えています。中国の歴史書「史記」に邪馬台国は中国の「寧波」の真東にあり、島には「ハブ」がいる、とあります。北九州や大和にはハブはいません。限りなく徳之島は「邪馬台国」である。
邪馬台国は徳之島
中国の歴史書「魏志倭人伝」の中に倭に国の「卑弥呼の邪馬台国」に触れた所がある。
 住民は 1、年中裸足で暮らしている  4、気温は海南島と同じである
     2、年中青野菜を食べている  5、中国寧波の真東にあり、山多き島
     3、刺青をしている      6、島には毒ハブがいる
地図を見るまでもない、徳之島である。(当時はトカンと言った)。
決定的なのはハブが居る事である。九州や大和には毒ハブはいない。
では何故徳之島が邪馬台国になり得てのかです。
 徳之島の海洋民族は紀元前数千年も昔から「宝貝」を小舟に積んで中国と交易していました。秦の始皇帝の頃までは徳之島の宝貝が中国の貨幣であったのです。
現在でも財産を表す漢字にはすべて貝偏がついています。
 中国へ宝貝を齎した彼らは、寄り集まって談合します。
その際に「わ」を連発します。
南西諸島・沖縄・台湾でも「自分の事」「我々の事」を「ワ」と言います。
中國では彼らを「ワ人」「倭国」と呼んだようです。
日本の源流はここにあります。
次に徳之島が何故に邪馬台国になり得たのかです。弥生の使者「徐福さん」に登場して貰いましょう。
 今からおよそ2228年ほど前に、始皇帝の命を受けて徐福さんは徳之島へ派遣されました。始皇帝は万里の長城を造り、豪華な宮殿を造りました。最後の望みは長寿でした。
徳之島には100歳を超えたお年寄りが大勢いて、不良長寿の「仙薬」があることを耳にしたのです。仙薬を採りに派遣されたのが「徐福」です。
徐福を派遣するのに「巨費」を投じたと倭人伝は伝えております。
徐福は始皇帝が人質にして持て余した居た「童男童女」5〜6千人を貰い受けて船出しています。徐福は日本へ渡来してからは中国へ帰らず、日本に止まり「王」に成って居ます
恐らく「神武天皇」に違いありません。
徐福は始皇帝を裏切った事になり、歴史に載せなかったに違いない。又、わが国では恐れ多くも天皇家に関わる事ゆえに学校でも教えなのでしょう。
西洋の海洋民族は植民地で略奪や殺戮を繰り返しておりますが、徐福集団は渡来した島々に文化文明を広め、水田稲作・養蚕・製紙・造船など施しています。
徳之島はこれら文化文明・産業の始発駅でした。
そして邪馬台国が誕生できたのだ。
最近産経新聞から「海道東征・神武様の国造り」と言う冊子が出ました。
徐福さんの「東征・国造り」と全く同じです。
 昭和天皇ご夫妻が徳之島へ行幸された時の事ですが、空港から岡前の「祝い田」へ向かわれました。案内役の職員が不思議がっていました。
実は、この祝い田は徐福が水田稲作を現地の住民に指導してくれた田圃でした。
 徳之島に生を受けた者として誇りに思えてなりません。
最後に「トカン」であった島が「徳之島」になったのは何時頃か、です。
明治維新後です。名付け親は「西郷隆盛」です。
 西郷さんは徳之島に流罪になって2か月間過ごしています。
徳の在る親切な人々にもてなされたのです。
廃藩置県に際して徳之島にしてくれたのです